郡山市議会 2013-06-20 06月20日-04号
障がい者雇用を別枠で実施した青木市長以来ですから、22年ぶりの取り組みということでしょうか。市議になったばかりの私が、当時、この障がい者雇用の募集で願書提出のお手伝いをさせていただいた方が、車椅子ながら市の職員となり、結婚もして母ともなって、今でも元気に市の業務に当たっておられます。大変うれしいことです。 そこで伺います。
障がい者雇用を別枠で実施した青木市長以来ですから、22年ぶりの取り組みということでしょうか。市議になったばかりの私が、当時、この障がい者雇用の募集で願書提出のお手伝いをさせていただいた方が、車椅子ながら市の職員となり、結婚もして母ともなって、今でも元気に市の業務に当たっておられます。大変うれしいことです。 そこで伺います。
青木市長は「近代福祉都市」をスローガンに掲げました。藤森市長は「水と緑」できました。原市長は「市民の安全・安心」のスローガンを掲げました。私は、一番原市長が的を射ているのかと、そんなふうに思っております。ただ、このまちづくりの市民の安全・安心に徹底的に私はこだわったほうがいい。そういう面では、水と緑、公園づくりを含めて藤森市長はかなりこだわった。やはりそれなりの大きな成果があったと思います。
それから、水澤部長に申し上げたいのは、青木市長のときに私、議員になりました。一般職員の採用とは別に、障がい者の採用もやったんですね。大歓迎でしたね。我が市では現在も障がいをもつ者も職員採用試験を受けることができるといいますけれども、そういう心配りがあったんですよ。
振り返れば、郡山駅周辺の活性化を念願に、駅間の距離を縮めるべく新駅設置構想が提示されたのは青木市長の時代、平成元年3月、パーソントリップ調査においてでありました。続く藤森市政において、平成7年6月、本議会に郡山南拠点整備特別委員会を設置し、新駅設置については区画整理事業とあわせて積極的に関係機関の働きかけをしていくことと要望しております。
それから2つ目は、私の思いとしては、市長選でかつて青木市長と藤森市長がいろいろ争った経過もあって日東紡は名前を挙げるだけでも気に入らないという思いもあったかもしれないですけれども、もうその時代は過ぎて原市長になったのだから、当時かなりの郡山市の財政に貢献したと思うんです、そういう企業は。
今から約15年前になりますが、当時の青木市長は、アメリカのテキサスA&M大学の郡山校を誘致したのでありますが、その校舎の整備に頭を痛めた結果、ご承知のように、片平財産区の土地でありました西部の山林約84.9ヘクタールを市に寄附させて、ここに西部研究学園都市をつくる構想を打ち出したのであります。
本市の総合計画は秀瀬市長時代を第一次とし、高橋市長時代第二次総合計画が、青木市長時代には第三次総合計画が策定されました。歴代市長はおのおの自前の総合計画を持つという事実がございます。現在の第四次総合計画の基本構想の目標年次は、平成21年となっており、あと5年の期間が残っております。第四次総合計画の策定に取りかかったのが平成5年でありますので、12年の歳月が経過しております。
その意味で当時秀瀬市長の遠大な構想は高橋市長から青木市長の手によって引き継がれ、ここに四代目藤森市長の手によって事業の完成を見ようとしております。この布石をしいた秀瀬市長の農業に対する執念こそ、新郡山市づくりに欠かせないものがあり、農村・農業・食料に対する深い思いとともに、遠大な田園都市構想が、やがては21世紀大郡山市発展につながるものと固く信じております。
最後に、昭和54年4月、郡山市議会に当選以来5期20年、高橋市長、青木市長に12年間、この間はまさに波乱万丈の時代でありました。当時を思うとき、議長選出の混迷、あるいは「こんばんは」と始まった一般質問などなど、走馬灯のごとくに思い出されるものであります。 藤森市長には、平成5年4月就任以来、課題となっておりました駅西口再開発を初めとし、大型プロジェクトが完成いたしております。
歴代の市長は秀瀬市長、高橋市長、青木市長、そして現在の藤森市長であり、多くの先輩や、それから同僚議員の皆様、市民の多くの人々にも恵まれまして、また一方では、市町村合併など郡山の変遷を目の当たりにいたしまして、ことわざのように邯鄲の夢まくらのような気分で今日に至り、感無量のものがあります。
温泉も30.2度とぬるめだが、毎分160 リットル、またその近くに青木市長時代、 500メートルのボーリングを落とし、39度、毎分 260リットルのお湯が出ているのを利用できないかと聞いたが、敷地が狭く利用できなく、その計画も立ち消えになり、今日まで来てしまったわけであります。
だけども、前の青木市長時代だろうと思うんだけれども、あまり手をつけなかった。それゆえに、藤森市長の時代になって一生懸命格差を是正するため、一生懸命やっておることは認めるんです。しかし、前にやっていない分、今の時代に合わせてぼんぼんぼんぼん、陳情が上がっている。一生懸命やっているんだけれども、やっている以上に上がってくるから、市ではやっていないんじゃないのかなと。
第1点、この旧村上家の建物は村上三男氏の意向もあり、平成4年9月19日、当時の青木市長に市の文化財に認定していただくための陳情をしたところ、確たる造営時期が判明せずとのことで却下された経過がございます。私たち地元の人間としては、いまだに納得できないわけでありますが、その当時の調査結果について理路整然とした説明を求めます。
そしてその結果は、そごう出店に反対する勢力に支えられた青木市長が当選したのであります。それからは皆様方ご案内のとおり、60年8月に全計画の見直し案を青木市長が議会に出してきたのでありますが、当然議会も大反対。また地権者もこれを拒否。そうしたために、4日後には自分が出してきた見直し案を撤回するというような事態に至ったのであります。
以前の経過は、平成2年11月、商工会議所の津野会頭のあっせんにより事業を推進する旨の覚書を締結したにもかかわらず、覚書に基づき設置した同推進作業部会には、前青木市長は一度も出席をせず、常に消極的な立場をとり続けたことはまことに残念なきわみであります。
青木市長の意思に行政が追いつかないで、ゆえに縫い目が合わなくなってくる。よって議会の質問も事欠かない。それに比べ、藤森市長になってからは、十分な検討をして適正妥当なものを提案してくるんですから、いろいろなくてこれまた当たり前です。でも、これが普通なのであります。 青木さんの8年間で財政を、人事を、大型プロジェクトを壊してしまいました。
私は青木市長時代に、当時、鹿野財務部長に次のような質問とご意見を申し上げたことがあります。「景気のよいときには税収増の分を財政調整基金に繰り入れるか、繰り上げ償還の財源に積み立てる必要がある。景気の悪いときには市債に依存した財政運営が地方自治体における財政運営の原則ではないか」と申し上げたことがございます。答弁は「そのとおりでありますが、現時点では見解の相違」というものでございました。
そもそもこの新市場については、青木市長時代に、南インターチェンジ周辺の総合開発に組み込まれ、縦貫道東側からカルチャーパークまで、新市場を核に流通団地、トラックターミナル、倉庫団地として開発するという青写真ができていたのにもかかわらず、何もしなかったことに起因するのであります。そこでこの点について青木市長にただすと、私はつくらなくてはならないと思っている。
〔市長 藤森英二君 登壇〕 ◎市長(藤森英二君) 大和田光流議員のその他、前青木市長の「光と影」についてどのような認識と評価をしているかとのご質問にお答えを申し上げます。
そして、青木市長から命を受けて調査に行ったはずだ。調査の報告しているはずだよ、これはね。それが俗に言う、役所では復命書というはずだ。その復命書を前に私は前青木市長から見せてもらったことがあったけれどもさ。頭悪いから忘れちゃった。何て書いてあるか提出してもらう、コピーして。 それからですね、県が云々あったけどさ、学校法人の認可したべ。やったはずだよ、これは。認可したのだからさ。